2006年03月16日

依存からの解放のステップ

アルコール依存や、性依存、また恋愛依存、抑えられない自殺願望などに悩まされている人々は、常に強い罪悪感・劣等感・後悔にさいなまれています。

人は、自分がしたいことをしているのではなく、本当はしたくない、よくないことだと思ってることをすると、「罪悪感」「劣等感」「後悔」を感じるものです。

飲んではいけないと思うのに、こんな関係は良くないと思うのに、こんな衝動は明らかにおかしいと思うのに、それでも飲み不毛な関係を持ち、ナイフを手にしてしまうのは、したくないことをしていること、本当は自分にとってよくないことだと、知っているのです。


そもそも、「私」とはなにからできているのでしょうか?人の心には、「よい行いをしたい」という思い(良心)と、「自分の思い通りに生きたい」という思い(エゴ)が存在します。そのふたつがそれぞれにバランスをとって、「私」を形作っています。

実は、「私」の中には「罪」という厄介な存在が住んでいるのです。

とても勘違いしやすいけれども、罪は「私」ではありません。「私」とは全く別の存在ですが、「私」の中に住み着いているものです。「私の心」という家にいつの間には住み着いている、ゴキブリのようなもの。

このずうずうしい存在は、「エゴ」をそそのかして「良心」のルールを破らせる行為へと駆り立てます。しかし決して存在を明かすことはしません。ヤクザの黒幕さながらに、見えないところで糸を引いているのです。



罪の手口は非常に巧妙です。彼らは「私の中」に、自由に出入りできる扉を持っています。その扉の向こうから、「ほらほら〜、ちょっとだけ飲んでこらんよ。飲んだらこんなに、あんなに楽しいんだよ♪」とささやくのです。

その声につられて「エゴ」が扉を開けると、突然犬が飛び出してきて「良心」に飛び掛ってきます。すると「罪」は手のひらを返して 非難し始めます。

「扉を開けたのはお前だ!開けたおまえが悪いんだ!もうだれもお前のことを大事な人間なんて思わないだろう。お前は人間のくずだ!」

こうして「私」はしたいと思うこと、良いと思うことではなく、「罪」が仕掛けた罠にはまり、 犬に襲われ続けながら(罪悪感にさいなまれながら)心に響く声に非難され、「こんなことしちゃうなんて、私ってホント、バカ!バカ!」と、自分自身を責め続けてしまうのです。

「私」は罪にはめられて、望まない生き方を強いられています。しかし、それは「私」がどうしようもない至らない人間だからではありません!

確かに「私」はしたいと思うことができない、みじめな状況には置かれています。しかし、それはあなたの存在が不必要でだからでも、失敗作だからでもないのです。

喜びとか幸せとか、元気、ウキウキ、キラキラにあふれた、つまり、神様があなたに用意しているハッピーライフの為には、罪が出入りする 扉を閉め、こそこそ隠れてる罪に立ち向かい、それらとの縁を切る必要があります。




■扉を閉めて、罪と縁を切る為のガイドライン
1.したくないことをさせてるのは、「私」ではなく「私の心」に巣食う罪だと認識する。

2.痛みの原因は「良心」に噛み付いてくる犬(罪悪感)。「私」を責める必要はない。犬を「私」の中から追っ払う必要がある。

3.「罪」が入ってくる扉を完全に閉じる。大体過去の何かが扉を開けてしまっているので、その原因を見極め、赦す。

4.十字架による勝利宣言をし、罪との関わりを絶つ。


これらは聖書に基づいた「解放のステップ」と呼ばれるものの概略です。

クリスチャンの信じるJesusの十字架とは、一人ひとりの心の中に巣食う罪と、それによってもたらされる罪悪感・劣等感・後悔をすべて無力にする、唯一の力です。その十字架の力によって、自分ではどうすることもできないものから、多くの人々が解放されてきました。

人によっては、特定の扉が大きく開きすぎちゃってて、閉じるのが結構大変だったりします。そういう場合はパスターやカウンセラーと一緒に、このステップを行うべきでしょう。

ちなみに私はこのステップをやりました。経験者として保障しますが、非常に生きることが楽になります。

繰り返される思いや、苦しみや、罪悪感や、劣等感があっても、それはあなたがどうしようもない人間だからではありません。罪が勝手に出入りする扉が、 どこかにあるせいなのです。

posted by FM at 17:24| 東京 🌁 | TrackBack(0) | faith | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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